グッド大砲(大)

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【雑記】車の通らないことが確信できる人のいない道で信号を守るか否か

交通量も少なく誰も見ていないとき横断歩道の信号機に従うだろうか?: 極東ブログ

 

 finalventさんの「極東ブログ」で、面白いテーマを見つけたのでなにも考えずに勢いのままガリガリ文章を書いてみる。

 上記のリンク先は、finalventさんがすごい詩的な文章で「信号を守るか守らないか」って話を書いてはるのだが、まあ、ここでは中身は置いておいて「信号を守るか否か」の思考実験をしてみたいと思う。

 

 「いや、ルールだし信号は守るのが当たり前だろ」

 と言われるのは、社会的にとても正しいんだけど、実にもったいない。

 その「当たり前」がどこまで当たり前かを崩せる楽しい思考実験ができるのだ。

 

 私は京都に住んでいるのだが、つい先ほども夜の街にいっぱい観光客の外国人がいて、次々に信号を無視していた。車通りの少ない深夜なんかには当然のように大通りの信号を無視していく。

 もちろん彼らも法治国家の住民であるのだが、それでも信号を無視することは当たり前なのだ。

 

「いや、外国の話など関係なく、日本人ならルールを守れよ」

 んじゃあ、こんな例はどう?

 我が家の近くに商店街があって、そこは午後いっぱい歩行者天国になるんだけど、その歩行者天国で車が来ない側にも信号がついているんよね。

 そんな車が通らないことは明白なところにある信号。

 これは守る? 守らない?

 あ、「絶対に車が通らない」ってわけじゃないよ。何時間に一回は特別に許可された車とかがアーケードの中を通り抜けるから、そのときは信号を見ないとダメ。信号無視してたらひかれるよ。

 これでもルールを守る?

 ちなみにこの信号を守っている人は数年に1回見るか見ないかのレベルだわ。

 

「そんな極端な例を出すな。話しているのは普通の信号の場合だ」

 んじゃ、どこからが極端でどこからが極端でないかを考えよう。

 まず、さっきのアーケードは極端だとする。

 では、歩行者天国でないけれど、まあ車が来るのは一日に数回だろうなと分かる道の信号は?

 この信号は昔はよく使われていたのだけど、区画整理で先の道路が袋小路になってしまい、その袋小路の住民の車1,2台ぐらいしか通らなくなった。で、周辺住民もそのことをよく知っているし、この信号でぼけーっと待ってたら、「頭は大丈夫か?」と心配されるほど信号を無視することが当たり前の状況になっている。

 さあ、どうする?

 

 じゃあ、その信号を観光客として通るとしよう。

 田舎の信号でたまにある設定ミスかと思うほどのむちゃくちゃ待ち時間が長い信号だ。

 で、車が来るかなと確かめたら、袋小路になっていて「来るわけねえな」と理解できる。周囲には誰もいない。信号は相変わらず変わる気配がない。

  さあさあ、もう渡ってしまおうか?

 と、思ったら少し遠くの後ろから自転車に乗った子供が現れた。

 子供は赤信号で待つあなたを、なにか変なものを発見したときのような驚きの目で見ながら、勢いよく横を駆け抜けて信号を無視していく。

 子供の通り過ぎた前を向くとまだ信号は変わらない。田舎の信号恐るべし。

 ここまで待ったなら意地だ、と待つあなた。

 そのとき、老婆が横の民家から顔を出し、声を掛けてきた。

「おんやー、そこの信号はなかなか変わんねえよ。渡りなさいなあ」

 ニコニコと渡るよううながす老婆。

 あなたは、そしてこう言った。

 

 A.ありがとうございます。

 B.ルールは守るべきだ。

 

 え、選ばないの? これも極端だって?

 んじゃあ、見晴らしの完全に開けた通り、たとえば田んぼの真ん中のぽつんとある交差点で周囲数百メートルは見渡せるけど――

 ん、なに。田舎は禁止? 都会限定?

 もう条件づけている段階で「ルールだから当たり前」ってのは崩れている気もするんだけど、分かった。分かった。んじゃあ、設定は都会にしよう。

 

 あなたは道路交通法を正しく守って自転車に乗ってる。

 もちろん都会の真ん中でだ。はいはい、人もまわりにいっぱいいるよ。

 んで、交差点を左折しようとした。

 そのときあなたは手信号をしますか?

 え、知らない? 左腕を左側に水平に伸ばすポーズ。

 道路交通法で左折時には「手信号による合図を示さなければならない」と決まっているんだけど?

law.jablaw.org

 

 話をすり替えるな、って?

 いやでもこれ、おんなじ道路交通法だよ。

 分かった分かった、破ってもいい道路交通法と破ってはいけない道路交通法があるってことダね。

 

 んじゃあ、最後に聞くよ。

 

 あなたは都会の小道の信号を待っていて、車は通ってこないと確信が持てて、周囲に迷惑をかけるような人もいない。

 さあ、あなたは信号を守るかな?

 

____________

 

 とまあ、適当に書いてたら小芝居調になった。なんでだ。

 

 でも、突き詰めていくと「程度問題」だったりするんだよね。

  ・無視するのが当然の構造の信号なら

  ・時間が怖ろしく掛かる信号なら

  ・安全だと分かりきっている信号なら

  ・迷惑を掛けることがないと分かる信号なら

  ・緊急事態が起きたときにつかまった信号なら

 

 んで、そのうえで、どのような信念を持って線引きを行うかというところに、「法の社会契約説」を持ち出したり、「経済的合理性」を持ち出したり、「社会道徳通念」を持ち出したりして理屈づけをしていくわけだ。

 んでんで、そういった考え方のどれもにメリットがあったりして意見がぶつかりあう。

 ルールだからとにかく守る、って硬直してたら、思考に柔軟性がなくなるわな。

 

 

 私?

 私は基本的には経済合理性を重視するかなあ。

「渡ってはいけない。ただし例外あり」ってすると、例外の部分があやふやになる。

 ならいっそのこと、「念には念を入れて確かめた上、事故に遭った場合の責任の重さを理解した上でなら、渡ってもいいし渡らなくてもよい」と自己ルールを規定してしまえば、「赤なのに周囲を見ずにあわてて飛び出す」なんてことは減るんじゃないかな。

 くわえて子供がいたり、大勢の人がいたりするときも避ける。

 それは自分の行動が社会の一員として、規範を守る姿を見せることに意味があるのは知っているから。

 でも、経済合理性を追求する社会ってのも、絶対に間違いとは言えない。

 なにからなにまで「ルールですから」って縛る社会はあんまり好きじゃない。そういうのが好き好き大好きってんなら、自転車では手信号絶対な。例外規定なしな。

 あと、何人ぐらいが周りにいれば信号を確実に守るとかは程度問題かな。

 簡単に言えばまわりに人がいれば気分で渡らない。子供がいればほぼ絶対渡らない。

 あ、繁華街に多くの人が信号無視する小さな道路がある(木屋町四条)んだけど、そこではわざとゆうゆうと待つね。ひねくれ者だし。

 

 んー、こういう少しねじ曲がった考えに至ったのは、青信号を普通に渡っているところを突っこんできた車にはねられ、全治1カ月の入院生活をしたせいかもしれない。

 まあ、結局は社会的に事故が減って、なおかつよりスムーズに回ればいいかなと思う。

 と言うわけで、みなさまご唱和ください。

 

 今日も一日、ご安全に!