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グッド大砲(大)

適当に書き散らし、適当に読み飛ばす、意識低い系適当雑記サイト

「宗教に引っかからない」という人ほど、ヤツに引っかかる

読んだ。考えた。

 

 

そのときのブコメはこんな感じ。

 

私は、基本的に神道をベースにした「自分に都合いい教」を信仰している。

人生には自分の力ではどうしようもないことは起きるし、自分にはどうしようもない大切な人の安全や成功を願う気持ちもある。

どうしようもないことに直面したら、祈るしかない。

祈りは、非合理的で現実を変化させる力などないけれど、やりきれない気持ちを穏やかにはしてくれる。

 

祈りに頼るのを心が弱いと笑う人もいるだろう。

だけど私は、癌を患った恩人が生死の狭間に立ったとき、 祈らずにいられるほど心は強くなかった。

誰でもいい、何でもいい。助けてほしい。

そんな祈りを、非合理的だと笑いたければ笑えばいいと思う。

 

世の中には、自分の手でどうしようもないことがある。

私もだし、たぶん多くの人は、手の届かないことを傍観できず、祈ってしまうだろう。

その恩人は、四十歳を過ぎたばかりの若さで亡くなられた。

治ってほしいという私の祈りは、何者にも聞き入れられることはなかった。

激務を長年続けられていたから、身体への負担があったのだろうと思う。

そのことを思えば、どうか今は穏やかな世界にいてほしいと願う。

死後の世界など分からない。 物質的には燃えて灰になるだけ。祈りなんて届くことはない。

それでも、祈らずにはいられない。

どうか穏やかで幸せな世界を、と。

 

世界には不条理があふれている。

努力は成果と結びつかないし、悪人が成功を手にすることもあるし、優しくすばらしい人は若くして亡くなる。

そんな不条理を前に、祈らずにいられる強い人は、ほんの一握りだろう。

むしろ、「祈りは不要だ」と主張する人ほど、絶望的な不条理を前に心を折られるのではないかと心配になる。

論理を砕かれた先、心の支えを失った先、そこで出会ってほしくないヤツ、それがカルトだ。

 

人生に不条理があふれているのと同時に、「霊的」なものもまたあふれている。

霊的というとまた笑われそうなので言い換えると、「霊的だと感じる心理」が存在しているということだ。

人の手ではなしえない雄大な自然の造形を前にしたとき、奇跡的なほどに整然とした科学理論に触れたとき、そんなとき人知を超えた何かを感じる人もいるだろう。

不幸が重なり精神がどん底まで沈みきったとき、 暗闇の中で恐怖感が耐えきれないほど高まったとき、そんなとき存在するはずのない何かを知覚することもあるだろう。

自らの頭で説明の付かない、何か霊的な存在とでも言うものに出会う可能性は決してゼロではないのだ。

 

その霊性を否定するのは危険である。

なぜなら、テクニックとして霊的な存在を見せることができるカルトが多くあるためだ。

「私は霊など信じない」と言い張るのはいいが、自らが霊的な体験をする可能性は忘れずにいた方がいい。

心の支えが奪われた絶望的な状況のとき、たとえば「あなたの気持ちが分かります」と驚くほど心を読み当てられたなら、その力にすがりついてしまいかねない。

どこかで調べたのだろうという可能性に、普通の精神状態なら思い当たるかもしれないが、心はそんなに強くなんてない。

 

そのとき思い出してほしい。

霊的なものを感じる可能性なんて無限にあるってことを。

心がボロボロになったとき、ものすごいことを言ってくる超人的な人と出会うかもしれない。

その人は確かにすごいのだろうし、心を支えてくれたなら感謝すればいいと思う。

 

でも、その人は絶対ではない。

いくつもある霊的なもの、あるいは霊的に見せられたものの一つ。

それは人生の中で、ごく自然にありえるものなのだ。

 

だから、あなたの人生を捧げろと、その人から求められても渡す必要なんてない。

この世界には、どうしようもないほど素敵なものが、いくつもいくつもあるのだから。

 

絶望的な状況で与えられた救いの道は、傷のない合理的なものに見えるかもしれない。

端から見れば非合理的なのだか、自分の目からは合理的に見えてしまうことはある。

だって、人は非合理的な祈りをしてしまうものだから。

その非合理を真っ正面から否定していると、自分が非合理的な思考に陥ったとき、自らを省みられなくなる危険性がある。

だから、祈りたくなる自らの精神のことを、心の隅にでも留めておいてほしい。

そんなに人は強くない。

それでも、 祈りながら人は歴史を紡いできた。

もし弱ったあなたに「合理的な祈りの手法」を与える人が現れたら、思い出してほしい。

本当にたくさんの人が、祈り、祈り、祈り、そして生きてきたことを。

なにもその目の前の祈りだけが合理的で絶対的なものではないのだ。

 

 

なので、私は「自分に都合いい教」を信じている。

日本文化の中で育ったから、神道的な考えはなじみやすいし、八百万の神がいるという考え方も楽でいい。

いっぱい神様がいれば、私の考えと合う神様もいるかもしれない。

それから、祈りなんて届かないのは知っている。

でも、祈ってしまうのは仕方ないし、闇雲に否定して心を消耗してもムダだから、「届かなかったときは他で埋め合わせがあるんだろう」と適当に思っている。

人間はこれだけ多く死んでるのに、死んだ後の世界すらも分からないのだ。

なら、祈りが届かなかったときは、死んだ後にでもいいことがあるんだろうと思っておけばいいって発想だ。その方が気楽でいい。

なので私は、私の頭の中だと死んだらパラダイスに行くことが決まっている。

まあ、死んだら死んだでそのときだ。

え、祈りが届いたとき?

それは私の日頃の行いがよかったからです。

うん、都合がいい!

 

そんな感じで、私は今日もぼんやり祈る。

幸せで楽しい、いい日になりますように。

 

あ、あとこの記事がたくさん読まれて、Twitterとかでいろんな人とつながれますように。

(しかし、祈りは届かなかった……!)